①↓『日本思想大系67民衆宗教の思想』(1971・岩波書店)323~324

※ 村上重良『金光大神の生涯』(71~72頁)
安政五年九月二十三日、文治は、神命によって金乃神の「下葉の氏子」から「一乃弟子」へと一段進んだという。そのさい、天照皇太神と金乃神の間にあった、文治をめぐる応酬が、『覚』に記されている(覚書6.1)。 『覚』を通じて、金神(金乃神、天地金乃神)以外の神のことばが記されているのは、厄年の大患のおりの石槌の神と、この箇所の天照皇太神だけである。文治 にとって、伊勢の神天照皇太神は、日ごろ親しい神のひとつであった。文治は、青年時代に伊勢まいりを済ませ、二十年近くの間、毎年、伊勢の御師について近 村に大麻を配って、日本の祖神とされるこの神の神徳のかずかずを聞き知っていたし、神前であげる「六根清浄祓」も、「天照皇太神のたまわく、人は即ち天が 下の賜物なり……」ということばで始まっていた。天照皇太神を日本の祖神と考えられていた文治の意識では、氏子はすべて伊勢の神のもとにあるものと考えて いたのであろう。金乃神が強く迫って天照皇太神から自己をもらいうけてくれたことで、文治は金乃神の「一乃弟子」という、神からもっとも信頼される人間に なったことを自覚した。

※ 小沢浩『生き神の思想史』(23頁)

戌の年のような氏子はほかにいないというのは、文治が長年、この村の伊勢御師手代の札配り・荷送り役をつとめてきたという特別の関係をさしている。 しかも、当時の記録によると、この役目は村から任命され、出費もすべて村の歳費からまかなわれるという、きわめて公的色彩の強いものであったから、この役 職から解かれるということは、まさに共同体の祭祀組織から解放されるための不可欠の条件であり、このフィクションのすべては、それを実現するための伏線に ほかならなかったのである。そして文治は、間もなく、隠居を名目としてではあるが、ついにこの目的を達成したのであった。

※ 桂島宣弘『思想史の十九世紀』

★ 文治の「金神」からの「お知らせ」を書き綴った『お知らせ事覚帳』では、晩年の文治と「金神」との対話として、「伊勢天照皇大神氏子金光大神、金神が元もらい、天地乃神が立つようになりたから、道理は神も氏子も一つことなり。金光、神なり。生家も神に用い」(覚帳26.24明治15年旧11月13日)とあるが、まさに「金神」が文治をもらい、逆にいえば、文治に信仰されることによって、その「祟り神」とは異なった「神」の「働き」が示され、「天地乃神」が「立つ」ようになったと述べられているわけである(47~48頁)

★ 金光教祖赤沢文治は、金光教を近代的「宗教」、神道とすることを最後まで認めていなかった。…元治年間に金神から建築を命じられた「金神社」とは、文治の 信仰する金神=天地金乃神の「まいり場所」を意味するものであったが…文治の没後に設立された「素戔鳴神社」「金乃神社」は、文治が構想した「金神社」と 本質的に相違する、近代神道の神社にならざるを得なかった(250~252頁)

*覚帳24.13 同じく二十七日夜、金光明神、一つ、社号のことお伺い。なんでもよし。若葉に任せ、祭りの間にかなうように戸長相談いたして願い、とお知らせ。一つ、内 (以前)に願いあげ、須佐之男神社。四柱の神 須佐之男尊 金山彦命 金山姫尊 大日霎尊 伊邪那岐 伊邪那美尊十月二日、旧八月二十八日、社号のこと戸 長へ願い出、聞きずみに相成りと申し。(明治13年旧8月27日)

*覚帳21.14丑七月二十九日早々御礼申しあげ。天照皇大神様よりお頼みに相成り。天地金乃神様ご同様に、忌み、服(服喪)、不浄、汚れ申さず、諸事のこと氏子へ広め。金光大神お頼みに相成り。(明治10年旧7月29日)

*覚帳26.20 十日、一つ、宮地こしらえ。親神天照皇大神宮の宮も地中(境内)へ建てさせ。先祖の宮建て、同じく。大阪白神の宮建て、同じく。そのほか氏子、神になり、同行(同様)に。(明治15年旧9月10日)