京極作品(1)鈴木光司著『リング』『らせん』のような現在話題のエンターテイメント大衆文学には、ウィルスの最新知識 とともに、怨念の持続をめぐる古くからの民俗的イメージがうまく組み合わされ、新鮮な戦慄の感覚が創出されている。
同様に、京極夏彦の作品になると、いっ けん戦後の社会構造を舞台にした推理小説の体裁を整えながらも、より直接的な形で、民俗学なかんずく陰陽道が扱ってきた対象をリアルに再現している。ちな みに私がその影響を調査したところ、京都・晴明神社の神官から次のような話を聞けた。
「つい二十年前までだれにも陰陽道ということすら知られていなかった のに、メディアに乗っかって知れ、がらりと参拝者の数も層も変わった。よく来るのが京極夏彦の愛読者で、それに関連して参拝する二十歳前後の女性参拝者が 今は多い」ということだった。古い宗教の破片や断片は、戦慄や恐怖の感覚を生み出すために、現代の大衆文学にとって重要な役割を果たしている。

(2)折口信夫「神道宗教化の意義」『折口信夫全集 20』中央公論社、一九九六年、二九五頁。

(3)上田正昭氏によれば、「日本の神道は神を絶対化し、神を人間とは断続した存在と認識する宗教ではなかっ た。原罪の観念にもとづく内面的な宗教倫理や戒律を形成した宗教でもなかった。家と共同体の生活を基盤とし、血縁的・地縁的な神々を信仰して、しかも神々 と人間が連続する神人合一の観念の内実化を深めたのが神道であった」と説かれている。(『神道と東アジアの世界』徳間書店、一九九六年、三十五頁)

(4)折口信夫「神道宗教化の意義」『折口信夫全集 20』中央公論社、一九九六年、二九五頁。

(5) 江戸中期の神道家である増穂残口(一六五五―一七四二)も、その思想をこのような陰陽五行説から老女の口を借りて、以下のように説いている。「老女有難 し。陰中の陽、地徳の素盞雄は土生金の金徳にて、秋にかたどり、殺罪を主り」(増穂残口「神路手引草」『日本思想大系39 近世神道論』岩波書店、一九七二年、一九二頁)

(6) 『日本民俗事典』二七三頁、『日本民俗語大辞典』六〇一頁、参照。

(7) 金井徳子「金神の忌みの発生」村山修一ほか共著『陰陽道叢書1古代』名著出版、一九九一年に収録。

(8) 前掲金井、参照。

ホキ内伝の本(9) 一般的には、「ホ」は竹に甫に皿、「キ」は竹に艮に皿という漢字書記で表わされるが、難漢字書体のため、本稿では『ホキ内伝』とカタカナで表記する。

(10) 村山修一「宮廷陰陽道の形骸化と世俗陰陽道の進出」(『日本陰陽道総説』塙書房、一九八一年)は、金神七殺の説や遊行のことは、もと院政期に始まり、中世には一般化したが、『ホキ内伝』はこれを巨旦大王の精魂に結びつけたとしている。

(11) ベルナール・フランク『方忌みと方違え』岩波書店、一九八九年、一一六頁。

(12) 中村璋八『日本陰陽道書の研究』汲古書院、一九八五年、二三七頁、引用。

(13) 前掲中村、参照。

(14) 『続群書類従』巻第九百六雑部五十六「ホキ内伝」項(『続群書類従 第三十一輯上雑部』続群書類従完成會、一九二七年、三八一頁)引用。

(15) 前掲中村『日本陰陽道書の研究』、二五四頁。

(16) 柴田實『御霊信仰』民衆宗教史叢書、一九八四年、一六七頁。

(17) 現行金光教教規(一九九八年七月二十二日施行)第三条(信奉する神)は、次のように記されている。本教は、「天地金乃神 生神金光大神」を信奉する。

(18) ほかに、現在見つかっている文治の伝承にも、「厄年は役に立つ年」「四なら幸せのシ」「イザナギ・イザナミも人間」などの迷信打破に見合った内容が見られる。『金光教教典』(金光教本部教庁、一九八三年)参照。

(19) 「覚書」は、『日本思想大系67 民衆宗教の思想』(村上重良・安丸良夫校注、岩波書店、一九七一年)の一部として公刊もされている。「覚書」「覚帳」両書ともそれぞれ底本は、当て字、な まり、方言などが使用されているが、本稿では基本的に『金光教教典』の表記に従った。

(20 現岡山県浅口郡金光町。

(21) 小野光右衛門(一七八五―一八五八)は、家相方位、占い、また禅の道や俳諧などにも通じ、特に 和算と暦 象に秀で、地方では稀に見る学者でもあった。文化十四(一八一七)年に幕府の天文方渋川景佑の門をたたき、天保十四年(一八四三)には、陰陽師達の総元締 であった京都の土御門家の入門状を受ける。弘化二年(一八四五)に著した『下元乙巳歳吉凶方』で従来の日柄方位説に反論し、安政三年(一八五六)には『神 道方位考』上下二巻を著した。『金光教教典 人物誌』金光教本部教庁、一九九四年参照。

(22) 前掲「覚書」3―4~5。

(23) 小沢浩『生き神の思想史』岩波書店、一九八八年。

(24) 桂島宣弘「金光教の神観念とその変容」(前掲『思想史の十九世紀』第二章、ぺりかん社、一九九九年)は、「存在としての神」観念に立脚した小沢氏の「生き神」論のありようを、キリスト教的「罪の子」観での説明だとし、「働きとしての神」観念を強調している。

(25)前掲「覚書」9―3

(26) 前掲「覚帳」3―14。

(27) 村上重良『金光大神の生涯』講談社、一九七二年。

(28) 右同『金光大神の生涯』より「はじめに」の一部を引用。

(29)桂島宣弘「民衆宗教における神信仰と信仰共同体」(『幕末民衆思想の研究』副題は、幕末国学と民衆宗教、第四章、文理閣、一九二二年)。

(30) 桂島宣弘「民衆宗教への眼差し」(前掲『思想史の十九世紀』第一章、二四~二五頁)参照。

(31)桂島宣弘「教派神道の成立」(前掲『思想史の十九世紀』第九章、二五〇~二五二頁)引用。

(32) 佐藤範雄「内伝」(『金光教教典』に収録)によると、次のようなエピソードがある。文治は「このかたは、人がたすかることさえできれは、それで結構であ る」という態度であったが、直信・佐藤が、それでは世の流行神と同一視されると進言した。文治が神に頼むと、「では、神の教えること、なにかと書いておく がよかろう」との裁伝が下り、佐藤が記録した。それが「神誡」「神訓」として後の旧教典(昭和五十八年以前の『金光教教典』)になった。

(33) 厳密に言えば、文治の意思とは裏腹ではない。合法化の条件は四柱の祭神(大日霎貴命、建速須佐之男命、思金神、金山彦命)だったが、「覚帳」には、文治が まだ生存中に、それまで反対していた公認のための社号を、積極的に受け入れ直したふしが見られる。「社号のことお伺い。なんでもよし。若葉に任せ」(「覚 帳」24―13)、「四柱まつり、広前せがれに任せ」(「覚帳」27―3)とあるが、あえてここでは、行論面での理由で桂島氏の説に従いたい。

(34) 前掲「覚書」6―1、引用。

(35)前掲「覚帳」2―7。

(36)前掲桂島「金光教の神観念とその変容」四七~四八頁、引用。

(37) 前掲「覚帳」26―20。

(38) 前掲「覚帳」21―14。

(39) 安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』岩波書店、一九七四年。