一章で見てきたように、中世に発生した金神の禁忌 は、近世になって急激に広まった。その裏には、金神の恐ろしさを描いた陰陽道の大書『ホキ内伝』の普及があり、仏教や修験道の呪術者たちが、祈祷要請にそ の大書を利用してきた。結果、『ホキ内伝』は、抄本・版本・注釈書が多く現存しているということであった。
その渦中にあって、幕末維新期(安政六年)に岡山県の現金光町に立教したのが金光教である。現在、その教団が掲 げる祭神は「天地金乃神 生神金光大神」であり (17)現行金光教教規(一九九八年七月二十二日施行)第三条(信奉する神)は、次のように記されている。本教は、「天地金乃神 生神金光大神」を信奉する。 、いまや金神とまったく同じ神名とは言えないが、神性開示は金神に由来している。創始者の赤沢文治 は、日ごろから金神を畏怖していたのに家族を次々と失う金神七殺の祟りに見舞われ、厄年には大病を煩うが、禁忌を重んじて止まない実意丁寧な態度の貫徹に よって金神への認識を怒りから慈しみに逆転させ、後に民衆救済の神示を受けることになったという。この神示をもって金光教は立教とされる。
教団としては平成十二年現在、立教百四十一年を数え、全国およそ千カ所の教会を合わせて二十万人以上の信奉者が 所属している。明治三十三(一九〇〇)年に、神道本局からの一教独立を果たしており、来る六月十日には教団独立百周年の記念式典が行われる。戦前は、既成 の迷信を打破する教義で勢力をあげ、大正期には全盛期を迎えた。その中身には、「日柄方位は見るにおよばぬ」「女は神に近い」 (18)ほかに、現在見つかっている文治の伝承にも、「厄年は役に立つ年」「四なら幸せのシ」「イザナギ・イザナミも人間」などの迷信打破に見合った内容が見られる。『金光教教典』(金光教本部教庁、一九八三年)参照。 などの教えがある。 戦後とくに昭和五十八年以降は、教典や祭服、拝詞などが改変され、独自の宗教色を表出。現在の教義は、天地自然の働きを神と捉えることで、神と人とが共に 支え合って生きる世界の創出を目指すことにその眼目が置かれている一方、金光教教学研究所で教義の明確化が内部的にも吟味されている。
金光教の先行研究は、民衆宗教史学の基礎を築いた村上重良氏や、その流れを汲む歴史学者の小沢浩氏、桂島宣弘氏 のほか、宗教社会学の立場から島薗進氏などに扱われてきている。本稿では、禁忌という現象の時代的な特性を重視する理由から、島薗氏が唱える「新霊性運 動」などへの現代社会的な関心を注ぐことはできないが、歴史学的な金光教研究の先行成果は、押さえておきたい。
文治についての基本的な資料としては、「金光大神御覚書」(以下「覚書」と略)、「お知らせ事覚帳」(以下「覚 帳」と略)の二書がある。「覚書」は、文治が明治七年旧十月十五日、「覚、前後とも書きだし」という神命を受けて記述した、信仰自叙伝ともいうべき書であ る。信仰の軌跡が、明治九年旧閏五月までほぼ年代順に記される。
一方の「覚帳」は、文治が体験したできごとや、その時々に受けた神伝がメモ形式で記載されている。安政四年ので きごとに筆が起こされるが、実際執筆を始めたのは慶応三(一八六七)年から明治初年ごろである。「覚書」完成後もこの書への記述は継続され、自らが没した (明治十六年十月十)日の十九日前まで記載は続いている。昭和五十一年から金光教教学研究所において解読が進められ、その解読文をもとに昭和五十八年、 「覚書」や文治にかんする民間伝承などと共に『金光教教典』で収められた。なお、「覚書」は、「覚帳」の記述を参照して書かれたものではないかと言われて いる (19)「覚書」は、『日本思想大系67 民衆宗教の思想』(村上重良・安丸良夫校注、岩波書店、一九七一年)の一部として公刊もされている。「覚書」「覚帳」両書ともそれぞれ底本は、当て字、な まり、方言などが使用されているが、本稿では基本的に『金光教教典』の表記に従った。 。
本稿では、改暦という社会現象を目安に、両書の性格の違いを執筆時期で区別したい。というのも、「覚書」「覚 帳」の旧明治六年癸酉正月二十日には、「閏、大小なし、月三十日」「月三十日と決まり、閏月、大小なし」と記述されてある。文治が改暦を意識した日付であ る。その翌年に文治の「覚書」執筆が始まる。つまり、江戸末期から執筆されていた「覚帳」に対して、「覚書」は、改暦直後にようやく執筆されはじめた回顧 録なのである。「覚書」は著者にとって、改暦という近代化を経た意識で改めて著された書物だと、位置づけ得よう。
では、これより文治の生涯を金神とのかかわりでた どっていくとともに、先行研究を整理していくことにしたい。「覚書」の記述によると、文治は文化十一(一八一四)年、備中国浅口郡占見村 (20)現岡山県浅口郡金光町。 の農家・ 香取十平の次男に生まれ、十二歳の時に隣村大谷村の川手家(後に赤沢と改姓)の養子となった。幼少のころから休日には神仏にお参りすることを願い出ていた という話があるように、若くから神仏に対する崇敬の念は篤く、文政十三(一八三〇)年には伊勢神宮への「おかげ参り」を村の有志と共に果たしている。天保 七(一八三六)年には、義弟・鶴太郎に続いて養父・粂治郎の相次ぐ二人の死の悲しみに直面するが、その後は家督を相続して農家経営の拡大に励む。しかし、 ようやく家運が上向きに転じかけたと思うや否や、天保十三(一八四二)年に長男・亀太郎が夭折、嘉永元(一八四八)年には長女ちせが病死してしまう。
なんとか気を取り戻した翌(嘉永二・一八四九)年、今度は家屋買収のめでた話がおこる。これにも祟りを気にかけ た文治は、幼いころから手習いの先生であり、また陰陽頭土御門家の直門でもあった庄屋の小野光右衛門 (21)小野光右衛門(一七八五―一八五八)は、家相方位、占い、また禅の道や俳諧などにも通じ、特に和算と暦 象に秀で、地方では稀に見る学者でもあった。文化十四(一八一七)年に幕府の天文方渋川景佑の門をたたき、天保十四年(一八四三)には、陰陽師達の総元締 であった京都の土御門家の入門状を受ける。弘化二年(一八四五)に著した『下元乙巳歳吉凶方』で従来の日柄方位説に反論し、安政三年(一八五六)には『神 道方位考』上下二巻を著した。『金光教教典 人物誌』金光教本部教庁、一九九四年参照。 に、日柄と方位の吉凶を鑑定してもらう。する と、建築予定の翌(嘉永三・一八五〇)年は干支が戌年だったので、戌年生まれの文治にとって家の建て換えは、年まわりが悪いということだった。すでに建築 準備を整えていた文治は、それでもなんとか繰り合わせをと、光右衛門に再び策を請う。まず母屋の南東に小屋を作って仮移転してから古い家を取り壊し、棟上 げの後に引っ越すという策を教わるのであった。ところがその嘉永三年、言われたとおりに仮移転した小屋で、次男の槇右衛門が高熱に倒れ、九歳で早世する。 さらに、二頭の飼い牛が次々に年をはさんで急死したのであった。
これで義父、義弟、子供三人、牛二頭で計七つの墓を築いた文治は、あたかも金神七殺の祟りと思わざるを得ない状 況におかれ、安政元(一八五四)年、数え年四十一歳になった。この年の暮れに五男の宇之丞(後生は教祖帰幽後の役割から二代金光様と位置づけられた人物) が生まれたのだが、いわゆる「四十二の二つ子」だったのだ。数え年で父親が四十二歳の時に二歳になる男児は親を喰い殺すという俗信におびえ、この子供の誕 生日を翌(安政二・一八五五)年正月にまつりかえる。
そうして、大厄の四十二歳を迎えるにあたり、厄負けしないようにと村の氏神・賀茂神社をはじめ、備後国鞆の祇園 宮・沼名前神社、備中地方の総氏神・吉備津神社、備前国西大寺の観音院などを巡って厄晴れを祈願する。それだけ苦労したにもかかわらず、安政二(一八五 五)年には、扁桃周囲膿瘍にかかって声も出ず、医者には九死に一生の重病と手を放される。いよいよこれから、一家は親類を集めて文治の回復を祈っていくの だが、「覚書」ではこの時のできごとを次のように表現している。
新家治郎子の年へおさがりあり。普請わたましにつき、豹尾、金神へ無礼いたし、お知らせ。妻の父が、当家において 金神様おさわりはないと申し、方角を見て建てたと申し。そんなら、方角見て建てたら、この家は滅亡になりても、亭主は死んでも大事ないか、と仰せられ。私 びっくり仕り、なんたこと言われるじゃろうかも思い。私がもの言われだし、寝座にてお断り申しあげ。ただいま氏子の申したは、なんにも知らず申し。私戌の 年、年回り悪し、ならんところを方角見てもらい、何月何日と申して建てましたから、狭い家を大家に仕り、どの方角へご無礼仕り候、凡夫で相わからず。方角 見てすんだとは私は思いません。以後無礼のところ、お断り申しあげ。 (22)前掲「覚書」3―4〜5。
文治の義弟・古川治郎に神が乗り移り、普請時の金神への無礼が知らされる。これに文治の義父が占った旨を主張す ると、金神の留守中に勝手をしようとする「日柄方角占い」さえすれば、亭主が死んでもよいのかと言い返される。反射的に文治は「いけない」と思った刹那、 口が聞けるようになり、「金神様、義父は何も知らずにいるのです。思えば年まわりが悪いのに普請をした無礼、凡夫ゆえに気づけませんでした。何も方角だけ をみて済んだとは思っておりません。無礼いたしました」と声を発した。
ここまでの前半生が、禁忌に振り回された文治の足跡である。金神の禁忌を守りながらも、結局その祟りにあうこと になったが、九死に一生を得たのはなぜだったのだろうか。またその後、金神との関係はどう展開していくのだろうか。まずは先行の学説成果から、小沢論と村 上論の禁忌の超克をたどっていきたい。
小沢氏は『生き神の思想史』 (23)小沢浩『生き神の思想史』岩波書店、一九八八年。 で、文治が大 患から復活した理由に、凡夫性の自覚を挙げている。小沢氏によれば、文治は、もはや一般的な常識ではどうにもならない状況で凡夫として自分の限界をみつ め、そこにあらゆる問題の根源を探そうとしたのである。その凡夫観は人間の存在拘束性、被造物性、有限性の自覚に値する。本来なら除けたり封じたりするは ずの金神に、自己の存在をかけて向かい合い、その苦難の意味を問いつづけて止まなかった文治の主体的なかかわりが、新たな民衆の祖神との出会いを準備して いたのだという。また、人間をすべて凡夫とみるか、マジカルな霊能の保持者とみるかは、神性の高さとその権威の集中度にかかわり、教祖があらゆる民衆の救 済を願う時、そうした偉大な力を発揮し得るのは唯一で至高のものでしかあり得ない。文治の神の神性は、とくに強力な威力をもって日常生活にかかわる金神に 集中し、やがてその金神が難儀な氏子の立ち行きを本願とする普遍的神性を備えた「天地金乃神」として、自らの姿を顕現するのであった。
かような趣旨で小沢氏の唯一神論は展開していくのだが、それは、あくまでキリスト教的表現を用いた説明でもある ようだ (24)桂島宣弘「金光教の神観念とその変容」(前掲『思想史の十九世紀』第二章、ぺりかん社、一九九九年)は、「存在としての神」観念に立脚した小沢氏の「生き神」論のありようを、キリスト教的「罪の子」観での説明だとし、「働きとしての神」観念を強調している。 。本稿の目的は、文治に信仰された金神が、その性格を変転していく過程を見つめ、そこから前近代社会の構造変化を捉えることにある。そのた めには、もう少しこの金神の神性開示への経緯をじっくりと見つめねばならないだろう。大患を乗り越えた文治は、小沢氏の言うように、この後本格的に信仰を 金神へと集中していく。
「覚帳」書き出しの安政四年の事蹟には、実弟・香取繁右衛門の乱心に駆けつけた文治が、弟の口を通じて金神と直 接問答ができるようになった経過が記されている。それ以降は信仰の展開にともない、やがて金神から利益を授かるようになり、その対象たる神名も、「金神」 から「金乃神」となる。「金乃神」はさらに「天地乃神」「天地金乃神」と改まり、天地万有を統一する神の信仰に、文治は到達した。神名が改まりゆくにつれ て、己の名も、「赤沢文治」が「文治大明神」に変わり、さらに「金子大明神」「金光大明神」「金光大権現」と次々に改まって、最後には「生神金光大神」と なっていた。
こうした文治の信仰過程において、金神が窮極の福神と捉え直されるターニングポイントは、安政六年旧十月二十一 日の事蹟であろう。「金子大明神」となった文治が、「天地金乃神」から人類救済を頼まれるからである。詳細は「覚書」には次のように記されており、それは 今日、立教神伝と呼ばれている。
金子大明神、この幣切り境に肥灰(農業)さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、人が 願い出、呼びに来、もどり。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来。農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業やめてくれ んか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてく れ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。此方のように実意丁寧神信心いたしおる 氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親に かかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き、とお知らせ。 (25)前掲「覚書」9―3
また、資料としての性格の違いを示すため、「覚帳」同年同日の記述も次に引用したい。
当十月二十一日お知らせ。麦まきしまい安心いたし。色紙五枚買い、五色の幣切りてあげ。この幣を切り境に肥灰さしとめに相成り候。おいおい家業やめと仰せつけられ候。 (26)前掲「覚帳」3―14。
後者の記述も、簡素ではあるが基本的な内容は読みとれよう。五色の紙でつくった幣を切ることをきっかけに農業を 辞めさせられ、世俗的な生活も欲望も捨てて神前広前に仕えよ、という神示がくだったのだ。おそらく立教神伝はこのメモから構想され、この世に数えきれない ほどいる難儀な氏子の悩みを神に取り次ぎ、助けてあげてほしいという神頼みとして、「覚書」に清書されたと考えられる。その清書内容の解説は、村上重良著 『金光大神の生涯』によると、「文治はこれを機に、それまで遠く離れて畏怖の念を抱いていた金神と出会い、金神への信仰を深めて、やがて自分を守り、自分 と助け合う金乃神の信仰に到達した」と説かれている (27)村上重良『金光大神の生涯』講談社、一九七二年。 。村上説では、金光教の成立には、突然の激しい神がかりも、神秘的な終末観もなく、時として教 祖文治の口から神の言葉が流れ出ることはあったが、それはシャーマニズム的な神がかりではなく、深い祈念の中で自ずから感得した神の言葉を筋道立てて述べ たものであり、創唱者としての性格は、生き神教祖とは異質であったという。ようするに文治は、オカルト教祖ではなく、あくまでも人間本意のきわめて近代的 な教祖だったということだ。また、村上氏は次のようにも語っている。
金光大神(文治)にみられる、信仰の合理性・開明性と政治の相対化を指標とする近代宗教の芽ばえは、その最晩年に成立した国家神道体制によって、自主的で豊かな展開を阻まれた。 (28)右同『金光大神の生涯』より「はじめに」の一部を引用。
晩年の文治周辺には、金神を介した信仰共同体が形成されていた。だがその時期は、国家神道体制という社会状況と 重なっていたのだった。立教後の原始金光教団が、明治以降に神道とどうかかわっていったのかを探るべく、次章は、最新の研究成果が期待できる桂島宣弘著 『思想史の十九世紀』を軸に、考察を進めていきたい。
幕末から明治にかけて、天理教、金光教、丸山教、大本教などの民衆宗教が誕生した。単なる俗信や現世利益の追求を超えて民衆宗教を創始した生き神=教祖たちの独自の宗教意識は、人々の自己解放・自己変革といかに関わりあったのか。「生き神」思想の変遷を通して、転換期における民衆思想のダイナミックな展開過程を描く。 (「BOOK」データベースより)
現在もわれわれが依拠する「自国像」「徳川思想像」は、19世紀後半に生成された言説を繰り返し「再生産」してきたものではなかったか?―戦後研究の徹底した総括と反省によって照らし出される、転換期の方法的視角。(「BOOK」データベースより)